「-深海に生きる魚族のように、
自らが燃えなければ何処にも光はない-」
これは昭和14年に没した明石海人の歌集「白描」の序文にある句です。同書は空前のベストセラーとなったのですが、死後50年の間、海人の経歴は不明でした。それは、彼が「癩病」だったからです。
かつて癩病と呼ばれたハンセン病。殆ど感染しないために古くは遺伝と疑われ、知覚神経から侵され、怪我しても自覚せず傷を広げて四肢や顔面に欠損を生じ、失明することもあることなどから、「業病」「天刑病」と忌まれていました。
治療法の確立した現在と異なり、感染性と分かった当時、隔離、断種、堕胎が強制され、患者とその家族は過酷な差別にさらされ、家族は身内に患者がいることをひた隠し、患者も肉親への迷惑を恐れ、隔離された患者は肉親とも音信が途絶えてしまうのが普通でした。
海人は、教職を得、恋愛結婚し、二女に恵まれる幸福の只中、25歳に発病。職を辞し、次女の死も葬儀の後に知ります。31歳、隔離収容。暴動が起こるような酷悪な収容状況の下、自殺未遂を経た後、短歌に没頭。35歳、病により失明。声も失った37歳の2月、「白描」を上梓。同年6月永眠。
以下、「白描」の序文です(括弧内林)。
-そして冒頭の句を記し、更に続けます-「癩は天刑である。加はる笞(むち)の一つ一つに、嗚咽し慟哭しあるひは呷吟しながら、私は苦患の闇をかき捜って一縷の光を渇き求めた。」
「そう感じ得たのは病がすでに膏肓に入ってからであった。齢三十を超えて短歌を学び、あらためて己れを見、人を見、山川草木を見るに及んで、己が棲む大地の如何に美しく、また厳しいかを身をもって感じ、積年の苦渋をその一首一首に放射して時には流涕(涙)し時には抃舞(小躍り)しながら、肉身に生きる己れを祝福した。人の世を脱(離)れて人の世を知り、骨肉(肉親)と離れて愛を信じ、明を失っては内にひらく青山白雲をも見た。癩はまた天啓でもあった。 」
絶望の深淵を潜り抜け、漸くにして辿り得た海人の句は、真の言葉であると思います。
