宮城まり子さん。1927年に生まれ、1955年に「ガード下の靴磨き」で歌手デビュー。1968年に肢体不自由児施設「ねむの木学園」を設立。以下は彼女の「私の履歴書」(日経新聞連載)からの紹介です。
あるとき、脳性マヒの後遺症で思い通りに手足が動かず、思わぬ動きをしてしまうアテトーゼのある少女の役を割り当てられました。演技に困り、お手本にと、子どもたちを見学させてもらいます。
それをきっかけに、福祉の勉強を始め、障害を持ち家庭環境に問題を持つ子が住める施設がなく、また、そこで教育が受けられるところがないことにも気付きます。彼女は思いつめます。「すべての子どもは教育を受け、そして、愛されなければならない」
また、どう演じるかを考え続けます。病気のため手足が勝手に動いてしまう少女。振り付けが面白ければ面白いほど気になります。うまく演じて観客が笑い、拍手してくれたらどうしよう。観客に一人でも病気を持つ子がいたら、その家族がいたら?
役者である前に、優しい人間でありたいと考えた彼女は、健康な子で演じると決めます。不評のカーテンコールで彼女の脚をつかむ人がいます。「まーりーこさん」と呼ぶのを見ると、演じるはずだったアテトーゼの子。笑えばゆがむ顔に満面の笑み。傍らには、その子を抱きしめ、涙をこらえている御両親。
その子が一生の決断をさせてくれたそうです。ゼロから施設をスタート。ようやく施設が落ち着いてきた頃、近くで原発の建設が始まるとの噂。もし何かあったら・・・、引越すしかない。そう考え、1994年に8億円の借金をして施設を移転します。
見ず知らずの人が手伝ってくれます。引越しを聞きつけた近くの西濃運輸からは、40人もの人が手伝いを申し出られたそうです。
「会社はトラック十二台を無償で貸してくださり、それぞれが三往復して、夕方四時にすべてを運び終えてくださいました。さよならと手を振って帰って行く銀色のトラック。夕焼けの真っ赤が木々の間を走り去るトラックをピンクに染めました。
ああ、生きている。なんて美しいのだろう」
このような至福の言葉が溢(あふ)れるまでに、どれだけ深い経験が蒸留されたでしょうか。胸が震えました。
