道に迷った羊(33号 2006年10月)

ある保育園で、手のかかる園児が一人いたところ、保護者から次のようなクレームがあったそうです。

「できない子のために先生の手が取られている。あんな子のことは放っておいて、私たちの子のために、もっと時間をかけてください!」

我が子の成長、幸せを願う親心から発せられた言葉だとは思いますが、放っておけと言われた子にも、その子の幸せを願う親がいます。子の幸せを願う親の気持ちに変わりはありません。

しかし私たちは、ついつい、劣位者を排除することによって、自分たちの分け前を多くしようと考えがちです。その結果は、どうなるでしょうか。

例えば、10人の子がいる学習塾で「最も成績の低い子を退塾させる」としたら、まず、該当する子が退塾させられます。すると、次は、残った9人の中の最も成績の低い子が退塾させられる番です。その次は、8番目の子で、その次は7番目の子で…。

これは、劣位者排除というルールの論理的必然です。一人一人を大切にしないと、多くの人が大切にされなくなるという事実を物語っています。

聖書には、次のようなイエスの譬えたと話が記されています。「百匹の羊を持っている者がいて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を野原に残し、迷った一匹の羊を見つけ出すまで捜し回らないでしょうか。そして見つけたら、その人はこの一匹のために喜ぶでしょう。」

私には、もともと人には優劣はなく、個性があるだけだと思えます。そして、様々な個性によって形造られるからこそ、この世界は、多様性と可能性に満ち溢れた素晴らしいものになるのだと思います。

算数、音楽、体育…、それぞれに得手な子も不得手な子も、様々な子がいて初めて、子たちは多くを学び、伸び伸びと育ちます。私たちの生きる世界が、そうなのだと思います。様々な言語、文化、肌の色。多様であるから世界は素晴らしいのでしょう。

むしろ、豊饒な多様性の中で、生きる道を見失い、迷っている羊が、私たちの姿なのかもしれません。

なお、障害児保育がなされる場合には、そうでない場合に比して保育士が多く配置され、結果として周囲の子たちにも、手厚い保育が行われることが多いことを付記しておきたいと思います。

(所長 林 光行)

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